和歌山の桜や紅葉の観光名所「根来寺」は最強の武力集団!

詳細アクセス
根来寺

和歌山県岩出市にある「根来寺」は桜や紅葉の観光名所として有名です。根来寺のシンボルといえば国宝にも選ばれている特大の大塔です!40mの高さを誇り、日本最大の木造の大塔なのだそう!

根来寺は根来衆とよばれる僧衆が戦国時代に強大な力を有し、戦国武将たちが恐れたほどの寺社勢力でした。なぜ根来衆がこんなにもほかの大名に恐れられるほど巨大な力を保持できたのか?それはポルトガル人がもたらした 鉄砲 でした。

今回は根来衆の歴史を述べながら根来寺の見どころについてご紹介したいと思います!

根来寺の創建

根来寺

根来寺の奥の院「興教(こうぎょう)大師・御廟所(お墓)」。

根来寺

この場所は根来寺開基・覚鑁上人のお墓で、興教大師の名はのちに東山天皇から下賜された大師号です。
この覚鑁上人によって根来寺は誕生したのです!

覚鑁上人は空海以来の学僧といわれた高野山の僧で、現在の佐賀県にあたる肥前国藤津荘で生まれ、十三歳で京都仁和寺に出家して、奈良と京都を往復しながら仏教を学び、二十歳で高野山に登ります。

高野山といえば弘法大師空海が平安時代の804年に開いた真言密教の根本道場ですが、覚鑁上人の頃は高野山の腐敗が進んでいました。覚鑁上人は高野山を立て直すために鳥羽上皇の庇護を受け、1132年に学問探究の場である「大伝法堂」と修禅の道場である「密厳院」を建立します。さらにその2年後には高野山金剛峰寺座主に就任し、空海の教義を復興しようと努めましたが、現状維持を望む高野山の保守派衆徒勢力との間に確執が生じ、保延六年(1140)には密厳院などが焼き討ちされるという事件が起こりました。

この事件によって覚鑁上人は高野山を下りる決断をし、大伝法堂の荘園であった弘田荘の豊福寺に拠点を移し、新たに学問所として円明寺を建て、伝法会道場としました。
その後、円明寺を中心として各種堂宇や子院を整備したのが、一山総称して「根来寺」と呼ばれるようなったのです。

根来寺

根来寺を築き上げた覚鑁上人は1143年に四十九歳の生涯の幕を閉じました。現在、光明真言殿で覚鑁上人のご尊像が安置しされています。

根来寺

そして、奥の院は覚鑁上人の墓として、ここに眠っているのです。

それから1世紀以上後、大伝法院の学頭であった頼瑜が大伝法院と密厳院を根来へ移したことで、覚鑁上人が空海の教義の復興のために建てた本拠地がようやく高野山から根来寺になったのです。

根来寺が最強の武力集団に成長したのは鉄砲おかげ!

その後、根来寺は新義真言宗総本山の寺院として数多くの学僧を抱えるほど発達し、時代は乱世に入ります。根来寺の僧侶達は領地を自衛するために武装して僧兵となり、 根来衆 と称され、その数は1万人にも及んだそうです!

根来衆は戦国時代における最強の武力集団として大名並みの勢力を保持します。その立役者が 津田監物 という人物です。

1543年、ポルトガル人が日本にまだなかった新兵器 「鉄砲」を種子島にもたらします。種子島の豪族の種子島時尭は2丁の鉄砲を購入したそうです。
そのころ根来衆の津田監物は根来寺の力によって貿易を盛んに行い、種子島にもたびたび訪れていたそうで、2丁の鉄砲の1つを紀伊半島に持ち帰ったそうです。

そして、持ち帰った鉄砲の複製に成功したことから根来衆は鉄炮傭兵集団として最強の武力集団に成長したのです。

しかしその後、天下を統一を目指す豊臣秀吉に目を付けられ、秀吉による紀州征伐が行われます。その結果、根来衆は敗北し、根来寺は大師堂、大塔など数棟のみ残して寺は焼き払われてしまいました。その後、紀州徳川家の外護を受けて再建され、根来寺は復興されたのです。

国宝の大塔

根来寺

国宝の大塔は紀州征伐を逃れた貴重な建造物の一つであり、鉄砲の弾痕も残されています。高さ40m、横幅15mの日本最大の木造の大塔で、日本で唯一大塔内に入ってお参りができます。空に届きそうなほど大きいですね~

根来寺の庭園

根来寺

根来寺の庭園は名勝にも指定されるほど美しいです!江戸時代の庭園で、自然の滝と池を取り入れた池泉式蓬莱庭園です。

根来寺

この聖天池も国の名勝に指定され、聖天堂が水に浮かんでいるようにご覧になれます。

戦国時代を生き抜くために戦った根来寺は時代に逆らえず焼失してしまいますが、その名残である「大塔」は残っています。

ぜひ時代を感じながら根来寺を観光してみてください!

拝観時間 4月~10月/9:00~16:30、11月~3月/9:00~16:00
入山料 500円
駐車場 あり